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こころの再生百人衆

芸能・文化分野の方々

桂 福団治さん

落語家


昭和35年 三代目桂春団治に入門。芸名、桂一春。
昭和40年 桂小春となる。
昭和43年 ペケペン落語考案。
昭和49年 四代目桂福団治を角座にて襲名。
昭和50年 映画「鬼の詩」直木賞作に出演。
昭和53年 手話落語考案。
昭和56年 手話落語教室を開校。
昭和43年三洋文化新人賞受賞。
昭和56年上方お笑い大賞功労賞受賞。
平成10年憲法記念日知事表彰(文化芸術)受賞。
平成10年文化庁芸術際優秀賞受賞。
現在、関西演芸協会会長、上方落語協会理事、日本手話落語協会会長。
著書 「手話小咄集」 「上方落語はどこへゆく」。

桂 福団治さんからのメッセージ

私が一番大事にしていることは「対話」ですね。相手の言葉をしっかり聞くということが大切だと思います。この頃は、何かあったら携帯電話での対話になってしまって、目の前に、相手がいるのに互いに電話を持ったりして、せっかくの出会いの場があるのに残念なことだと思いますね。こうした携帯電話の普及などで、人とのコミュニケーション方法が変わってきました。そのせいかどうかわかりませんが、昔の人は、空気を読むということが上手でしたが、今はあまりそうでないように思います。

それから、近所の人が集まっておしゃべりする井戸端会議とかについても、抵抗を感じてしまう人が多いのではないでしょうか。でも、あそこからすごく知恵が生まれたんですよね。子供の教育に対してでも、いろんなアイデアが出たり、悩み事も解決していったんやないかと思います。

私は三重県の四日市出身なんですが、文化圏は関西です。方言はありますが、ニュアンスは大阪ですね。ところが、電波は名古屋から来るんです、中部日本。新聞は中日新聞。だから、情報は東京発信のものが多いですね。

でも、私は上方が好きで、やっぱり大阪が好きでね、高校を出てこちらへ来て、もう生粋の大阪人になってしまいました。今では大阪に入ってくる弟子達に大阪というものを教えている立場です。我々が大阪の文化やいろんなものを守らなあかんと強く感じています。

昭和35年に、桂春団治師匠に入門し、落語家になって早や50年近くになりますが、試行錯誤ではじめた手話落語もずいぶん長く続けてきました。平成10年には、府知事から憲法記念日知事表彰(文化芸術)をいただきまして、自分の信じたこと、努力してきたことを表彰してもらって、うれしかったですね。楽しい授賞式だったことを記憶しています。次の一文は、この「手話落語」と私について書いたものです。ご紹介します。 ?『手話落語と私』私が手話落語をはじめて、もうすぐ30年になります。噺家として生きてきて、ある日過労から突然声が出なくなり、手術し、その闘病生活の中でふと思いついたもの、それが「手話落語」でした。皆様も知っての通り、落語は話芸です。耳で聞いて、目で見て、イメージを描いてもらう。全く音のない落語というものは、想像もできないものでした。私は、「ああでもない、こうでもない」と様々に思い悩みながら手話落語に取り組みました。そして、ひょんなことから、初公開しなければならないことになってしまいました。不安でいっぱいでしたが、高座を前にして逃げるわけにいきません。「今日目の前にいるお客様に、私の全てを注ぎ込んで見てもらおう。無心となってやるしかないんや。」と腹を決め、舞台に臨みました。私は文字通り一心不乱に演じました。すると、気がついた時には、会場を埋めた耳の聞こえない人たちが、私の拙い手話落語を見ながら腹を抱えて笑っているではないですか。私は、安心すると同時に、自分自身の中が喜びで満たされていくのを感じました。その時、聴覚文化である落語に初めて接した、耳の聞こえない人の喜びが、私を包み込んでくれたのだと思っています。

楽屋に引き上げ、舞台の興奮がさめやらぬまま数々のインタビューを受けていた私は、突然大きな不安に襲われました。古典落語の幕内からの非難が急に目に見えるような気がしてきたのです。「えらいことをしてしもうた。もうこれ一回だけにしとこ。」自分がしたことの重大さに気がつき、すーっと楽屋口を出ようとした時、「福団治さん」と呼びかける声がしました。10才くらいの男の子を連れたお母さんが立ったはりました。「どうかこの子と握手をしてやってください。この子は耳が聞こえません。毎年、この催しに連れてきているのですが、舞台が演芸に移っても笑ったことがありませんでした。それが、今日福団治さんの手話落語を見て、心の底から楽しそうに笑ったのです。私の袖を引っ張りながら、体全体で笑っていました。横にいて、こんなにうれしかったことはありません。よう手話落語というものを思いついてくれはりました。どうかこれからもがんばってください・・・。」あとのほうは言葉にならないほどでした。あどけない少年の小さな手を握りながら、私も心で泣いていました。(礼を言わなあかんのは私の方です。拙い芸にも関わらず、こんなに喜んでくれはる人がいる。それなのに私はさいぜんまで自分の保身ばかり考えていました。情けないことです。おおきに、おおきに。)

この日の出来事は、私に、手話落語の社会的役割の大きさを教えてくれました。いったん公にしてしまった以上、私個人の感情や事情でやめられるものではない。それを育て、より多くの人に共有してもらわなければならない。そういう決意が芽生えたのです。幸い、直木賞作家の藤本義一さんほか、多くの著名人の方のバックアップを得ることができ、大きな支えになりました。しかし、周囲の非難中傷の前に意欲がそがれそうになったのも事実なのです。売名行為という声は後を絶たず、また、自分の勝手でやっているとは言え、女房、子供のことも気になります。路頭に迷わすことはできません。悩みに悩みましたが、「手話落語はみんなのもんなんや。」そして「手話落語は、聴覚芸である落語とは違った、新しい芸能ジャンルや。自分はその開拓に携わることができるんや。」その思いに至った時、迷いはふっきれました。

私が、見本も手本もないところから手話落語を考案して30年。今、私を通じて手話落語を学び、東西で活躍されている方が100人を超えています。彼らの演じる手話落語で笑っているのは、聴覚障害者の人ばかりではありません。健聴者の人も笑っていることがしばしばあります。その瞬間、聴覚障害者と健聴者という壁は消滅しているのです。しかし、手話落語はまだまだ発展途上です。聴覚障害者と健聴者誰もが楽しめる、そして、日本だけでなく世界へと通じる、「手話落語という新しい芸能ジャンル」を確立することが、私をはじめ、手話落語を応援してくださる方々の最大の願いなのです。

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