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こころの再生百人衆

アカデミック分野の方々

fujiwara

藤原 英祐さん

藤原ビルオーナー 明和興産株式会社代表取締役


藤原ビルオーナー
明和興産株式会社代表取締役

藤原 英祐さんからのメッセージ

 

大阪天神橋筋商店街のスタート地点、天神橋一丁目にフジハラビルという大正12年に築造された建物があるのを、ご存知だろうか。
風雪に耐えてきたスクラッチタイル張りの外壁、アーチ型の窓が趣深い。昔風にビルヂングとでも表記したいような、レトロな佇まいである。

平成21年現在で、築86年。人間なら二年後には米寿という、たいそうなお年寄りである。

この地上4階・地下1階建のこじんまりとした古いビルが、各方面から注目を集めている。かつて一度は廃墟となり、取り壊される寸前であったこのビルが、幅広いジャンルの表現者に愛され、日々新しいイベントを発信し続けるアートギャラリービルとして、見事な再生を遂げたからである。

もともと戦火をくぐり抜けた堅牢な建築物であったが、紆余曲折の後、私が父から引き継いだ時には荒れ果て、補修費は勿論、固定資産税だけでも大変な負担で、維持するだけでも大赤字という代物と化していた。正直なところ、厄介なお荷物としか思えなかった。

何故、経営学的に見てもハンデだらけの「不良物件」を、わざわざ残すことにしたのか。じつはこの経緯には、私自身の両親への思いが深く係わっている。父の死後、ビルの建て替えを検討していた頃に、母の言ったひと言がきっかけとなったのだ。

「あのビルには、お父さんの思い出がいっぱい詰まっているんや。苦労ばかりかけてきたおまえに無茶を言うのは申し訳ないが、どうにか残してもらえんやろか・・」

日頃滅多に無理を言わない母の言葉に、私の心は動いた。苦労続きの人生だった母。当時の状況としては簡単なことではなかったが、なんとか願いを叶えてあげたいと考えたのである。

業者に見積もりを依頼すると、手間暇かかるので費用も高くつく上、当時の姿や雰囲気を再現するのは困難であろうという。しかしそれでは、母のために残す意味がない。

「それやったら、自分でやるしかない」

かくして幽霊屋敷とまで呼ばれたオンボロビルを、なんとか再生し、甦らせるため、自力での補修を決意する事となったのだ。

・・とは言うものの、当時大学の教師(民事訴訟法・破産法・経営法学専門)であった私にとって(父の死後、教職は辞せざるをえなかった)補修作業は全くの専門外だった。その上、ビルの補修と並行して、父の残した50件余りもの裁判を独りで闘いつつ、十数億と言う莫大な相続税の支払いや、病床にある母を介護するという大事な務めもあった。

機能性を欠いた古いビルを、いかに現代社会に適合させて残すのか、という難問。表通りから引っ込んでいて人の流れも乏しく、小規模で用途にも制限がある。おまけに固定資産税や補修費といった経済的負担の重い民間所有ビルとなると、再生保存には二重、三重の困難が伴う。公共の施設や、立地条件の良い大規模建造物とは、比較にならないハンデがある。

ペンキ塗りや左官処理であれば、誰でもできる。しかし表面だけきれいにしても、今の時代には生き残れない。レトロビルの古さだけを売り物にしていても、呼び込める層は限られているし、すぐに飽きられてしまう。そこでビル自体に幅広い層がいつまでも魅力を感じられるように、より自由度の高い空間として、アートギャラリー兼フリースペースをビルの中心に据えようと思い至った。より多くの人に空間を開放し、人と人との繋がりを生み出す事で、新鮮な空気が吹き込まれれば、ビルも生き続けられるのではないかと考えたのである。

こうして法律家藤原流のビル再生がはじまった。取りかかった当初は素人ゆえの失敗も多く、まさに試行錯誤の連続であった。高所での作業も、ちゃんとした足場など組めない。骨折や何針も縫うような怪我をすることもあった。

肉体的な苦痛もさることながら、先の見えない莫大な量の裁判の合間を縫って続ける補修作業の孤独さは、言葉ではちょっと言い表せないような経験だった。

大都市、大阪の歓楽街を目と鼻の先にした処で、朝早くから夜遅くまで、修験者か苦行僧のような生活が続いた。ビルを訪れる人も、一人も無いような状態で、「このままでは、日本語を忘れそうや」などと、笑えない冗談を言っては、東京の大学のかつての同僚に心配されたりもしていた。

しかし無我夢中で手を入れていくにつれて、ただの薄汚れた古いビル、廃墟同然だった場所が、目に見えて変わっていった。

無愛想にシャッターが下りていた正面入り口は開け放たれ、ブロンズの黒猫が、ウェルカムの看板を胸にすました顔で立っている。

天神橋筋を歩く通行人が、少し脇道に引っ込んだフジハラビルの存在に気付くように、四階のテラス部分に建築基準法の許容範囲ぎりぎりの規模で、ガラス張りのサンルームを手作業で造り上げた。此処に明かりを灯すことで、ビル全体の雰囲気を明るくし、存在感を際立たせるのにも一役買っているのだ。さらにこのサンルーム部分が、狭い室内に解放感をもたらす効果もある。

また他の部屋の壁も掘削ドリルで打ち破り、最終的には室内と廊下を境目なく同じ色合いに塗って、視覚的に広さを感じられるようにもした。

夜には一階部分の窓がスクリーンに変わる。オーケストラ演奏や開催中のイベント案内が浮かび上がる窓を見上げれば、どこからともなく音楽が聞こえる。全館にスピーカーを設えているのだが、およそクラッシックが流れるような街角ではないところから、クラッシックが聞こえるという、意外性に驚く人も多い。

また入口には水槽を置き、「水槽アート」と称して、格言や詩の一節を水中のオブジェで表現している。覗き込む子供たちは興味津々、大人は言葉の意味にどきりとするような演出だ。

道行く人が立ち止まり、あるいはちょっとおもろいビルがあると言って、友人や恋人を連れてくる。さらにアーティストや学生も訪れるようになり、ビルの内外の壁面を、創作の意欲に燃える若い作家の力作が、(その中には、造幣局の職人さんがビルをモチーフに制作したメダルやレリーフなどもある)賑やかに飾るようにもなってきた。

ビルの名前も、綴りのWをHに、フジワラではなくフジハラと変えた。たった一文字の違いだが、ネット検索が格段にヒットし易くなり、オリジナリティも増す。ブログやクチコミで、ビルの噂は人から人へ伝えられ、訪れる人も月日を重ねるごとに増えていった。

マスコミに取り上げられる機会も増え、新聞、雑誌はもちろん、映画やテレビドラマのロケ地にもなった。訪れる毎に表情を変えるビルを、毎年NHKが取材し、直近では朝日新聞の文化面で大きくとりあげられてもいる。(平成21年2月13日夕刊:魅知との遭遇欄)

イベントの顔ぶれもじつに多彩である。音楽会にダンス、写真や絵画の展示、演劇はもちろん、落語会に有名ブランドのファッションショー(マーガレット・ハウエル)。宝塚歌劇のポスターの撮影や、結婚式(私が神父役を頼まれる事も多い)までも開かれるようになった。おまけに私自身が劇団から依頼されて、俳優として出演する事すらある。直近では朝日新聞主催で、チェ・ゲバラ写真展が開催され話題になった。

いずれも補修を開始した十数年前には、まったく想像もつかなかった光景である。

私がビル再生において心がけてきたのは以下の通りである。

1、ビル本体だけではなく、駐車スペースなど敷地全体を含めた
再生戦略を展開する。

2、徹底的に考えて、他には無い、真似できない特徴を考える。

3、妥協することなく、常に変化(進化)し続けること。

4、古い建物ではあっても、要所に最新設備を用い、常に利用者
が求めるものを先行して取り入れる。

5、ビル再生に使えるものは何でも活用する。それは法律家とし
ての実践の中から私が習得してきたものである。

6、いつ来ても何度来ても、ビルの中を一歩移動する度に何か新
しい発見があるように、工夫をする。

7、遊び心満載の、温かい空間を創る。全ては亡き母が面白がり
そうな事を、という視点で考える。母は学校教育こそ受けてい
ないが、温厚かつ聡明な女性で、物事の評価判断能力は大
変優れていた。私は昔から母が喜んでくれる事が一番嬉しい
子どもだったし、ビル再生のきっかけを作ってくれた母への敬
意を忘れない事を、行動の指針のひとつとしている。

このようなビル再生過程が大阪市の主催で講談「フジハラビル物語」と題して公演されたこともある。(平成20年10月講談:旭堂南青)

最近になってビル経営や、レトロビルの再生などの観点で興味を持ち、卒業論文やレポートの取材目的の社会学部や経営学部、経済学部の学生なども、頻繁に訪れるようになってきた。彼らとの関わりは大学教員時代を彷彿とさせる。教育者として、青雲の志を抱いたころの思いを、再び強く意識する今日この頃でもある。

父から引き継ぎ、母の思いを受け、度重なる障害を撥ねのけて再生したこのビル。その母も、すでにこの世の人ではない。すべての裁判が、終息するまでに費やした時間は短いものではなかった。東京からの帰阪は、かつて一度は身を置いた学問の世界から、私をはるか遠くに引き離したかにも思える。しかし、私は自身を運命論者であると自認している。大学を辞めてここにいるのも、これもまた運命だったのであろう。理論の教授者が実践者に変わっただけで、法律家としての知識や思考法は、ビルの再生やビル経営の中で存分に活かされているのだから。

話は変わるが、私は自らを「二十歳過ぎの在日フランス人で、職業は俳優である」と称し続けている(この文章に添えたプロフィールも、これに沿ったものとなるはずである)。ところで、これはけっして産地詐称、消費期限の延長偽装の類のような、みみっちい性根から言うのではない。

国籍や民族、ジェンダーや思想信条、年功序列だとか、職業、容貌といった、皮相的な分類で人間の真の価値は決まらないし、評価もできないのだという私自身の確固たる信念と哲学を示すためなのである。それというのも、ビルに訪れる若者の中には、国籍や氏素性、家庭環境や社会の中での自分の身の置きどころに、思い悩んでいるような人がじつに多いからである。

私はカウンセラーではないのだが、ビルの案内がいつのまにか人生相談や、法律相談に変わってしまう事もよくある。そういった時に相手の気持ちをユーモアで和らげ、親近感をもってもらえるようにと、ふと口にしたのが上記の言葉なのだが、「どこがハタチのフランス人やねん。こてこての日本人のおっさんやないか」と、突っ込まずには居れないのが関西人の性であり、そこで私はここぞとばかりにタブー視されがちな話題にまで突っ込んだ持論を展開し、場合によってはアドバイスをすることもできるのである。つまりは、お笑いで言うところの「ネタふり」を常にし続けているのに近いのかもしれない。

自覚する、しないにかかわらず、人には各々与えられた運命がある。生まれた時代や、国、家庭環境、そして巡りあわせ。それらすべては自ら選ぶことの難しい大きな、水のうねり、川の流れのようなものである。しかし、その大きな流れの中で、どのように人生を送ろうとするか、その姿勢の持ち方だけは、本人の意思にゆだねられている。

その中で少しでも長く泳ぎ続けようとするか、諦めて沈んでゆくのか、選ぶのは自分自身をおいて、他には無い。

私の人生には、様々な障壁があった。これからも、またいかなる問題が立ちはだかるかもわからない。明日にも地震が起こるかもしれない。ゴジラが大阪湾から現われて、ビルを踏みつぶしていくかもしれない。だがそれらを危惧する必要はない。明日のことは明日のこと、明日の私にまかせておけばよいのである。

今日、今この瞬間の私は、ただ今の自分にできることをして、明日の自分が困らないように、恨めしく思う事のないように精一杯を行うのみである。

私のこれまでの仕事の後を見て、よく独りでここまでやったものだと、他人は驚き、誰にでもできることではないという。

誉められて悪い気はしないが、自分にできることをコツコツと続け、日々一つのことに打ち込む、その中から奇抜な発想も、斬新な工夫も生まれてきたのである。その過程は、かのエジソンの「1パーセントのひらめきと、99パーセントの努力」という言葉そのもので、自分だから出来ることを積み重ねてきた結果以外の何物でもない。

ビルを訪れる人にアドバイスをと請われることがあるが、何かをやってみた結果に後悔するのと、何かをしておけばよかったという後悔とでは、雲泥の差があるのだという事を、私は特に若い人に伝えたい。

「今、君に出来うる限りの努力を、人生で一度はしてみるべきだ」私が彼等によくこういった言葉をかける。この言葉に励まされて、未だ磨き終わらない原石のような才能が、ビルから育っていった。

例えば、その中には画家志望者の登竜門とでも言うべき、日展や二科展、創画展の入賞者がいる。高校演劇の全国大会や、新人戯曲賞で快挙を成し遂げた個人やグループもあった。国際的な造形物のコンペティションで評価され、さらなる飛躍を求め作品を世に問い続けるアーティストもいる。

もちろん皆が皆、努力がそのまま結果に結びつくような才能や運を持っているわけではないが、縁あってビルを訪ねてきてくれた人たちには人生の先輩として伝えたいことが山ほどある。それは教育者、法律家、そして会社経営者としてこれまで培い、蓄えてきた知識であったり、もっと根本的なこと、人生を幸せにするための価値観であったりもする。

人生を幸せに送ること、それは易しいようで難しい、難しいようで案外易しいものだと思う。今、手にしているものが例えわずかであっても、将来に展望を持つこと、なんなら夢や希望と言ってもいい。

自分に与えられた過酷な運命や、一見不利にしかみえない条件。そのわずかな手札、手持ちのカードの中から、最大限の可能性を引き出すのは、ほんのちょっとした発想の転換にほかならない。

例えばこのビルにしても、当初は悪い手札でしかなかった。父から引き継ぎ、母の思いを受け、度重なる障害を撥ねのけ再生する事ができたが、切り開くべき活路を模索し悩み抜いていた頃は、ただの薄汚れた廃墟にすぎなかった。

しかし、扱いかねる厄介物として、一度は投げ出しかけたこのビルが、地道な努力の積み重ねの結果、今ではなくてはならない相棒であり、あるいはまた私の哲学に基づいた、人生最大の作品とも言うべき存在となりつつある事を、しみじみと実感するのである。

そして、およそ非現実的な我儘としか思えないような、あの時の母の言葉を思い出す。それは先の見込みの全く立たない、裁判一色の私の人生に、自分が死んだ後、精神的な拠り所となる物を何かひとつでも遺してやりたいという、賢明だった母ゆえの深慮から発せられた言葉だったようにも思えるのである。考えすぎかもしれないが、すでにこの世の人ではない母に確かめる方法も無い以上、そう思う事に新たな意味を見出したのである。

だからというわけでもないが、このビルがいつか無くなる日がきても、「形のない何か」が、残ればいいと考えるようになった。

私の心に、いまでも母の思い出があるように、フジハラビルで過ごした時間が、誰かの心の拠り所になるならば、こんなに嬉しいことはない。採算を度外視したビル経営も、発表の場を得て生き生きと輝くアーティストたちの表情と、観客の笑顔や喝采に彩られた時間とが、私にとっては何よりの宝であり、かけがえのない成果と報酬なのである。

ビルには様々な人が訪れる。今のご時勢、人生に行き詰まり感を持っていたり、挫折やあきらめを抱いているような人も少なくない。私はできるだけ時間をこしらえて、一言でも声をかけるようにしている。私自身の人生が、母の一言で思いもかけない方向へ動き出したように、少しでも好転のきっかけになる事を願って、若い人に言葉を投げかけ続けているのだ。大阪人ならではの冗談もまじえつつ、時には厳しい現実に直言し、法律家として出来うる範囲でアドバイスをする事もある、そして常に必ずこう付け加える。「決断するのは、結局自分自身をおいて他には無く、チャンスが訪れた瞬間を逃さぬよう、常に前を向いた生き方を心掛けるしかない。」そう繰り返し、語りかけ続けているのである。

このような教育実践の場としての存在意義に、私はフジハラビルの今後の方向性を見出している。ブロードウェイミュージカルの営業も立ち行かない昨今の情勢の中にあって、文化や娯楽の業態に連なる個人所有のビルとして、その経営は決して楽なものではないが、継続していく事の意義と手ごたえを感じているからこそ、持てる力を注いで続けることができるのである。

このような私自身の思いと生き方を知ってもらえれば、また違った物の見方で、この古い建物をみつめ直していただけるのではないか、と考えている。

限られた空間だけでなく、建物全体を使い多面的に表現したいアーティストや、通常のギャラリーに物足りなさを感じているお客さん、そして一個人が人生哲学の実践として続ける、地道な営みに興味を持たれた方は、是非足を運んでほしい。

いつでも「二十歳過ぎの在日フランス人俳優」が、お待ちしています。

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