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こころの再生百人衆

経済分野の方々

細野 房雄さん

細野ビルオーナー 合資会社細野組社長


細野ビルオーナー
1948年兵庫県芦屋市生まれ。
甲南大学卒業後、1980年合資会社細野組三代目社長に就任。

細野 房雄さんからのメッセージ

時代が変わっても、変わらない本物を知ってほしい

細野ビルヂング(大阪市西区)は、現在、若いアーティストの個展やライブ、演劇、ファッションショーなど、毎日のように多彩な利用があり、近所の人も気軽に集まっていただき賑わいを見せています。また、大阪府の歴史的建造物にリストアップされ、大阪楽座事業の採択事業も毎年開催されています。

今では、戦前の建築物を活用して新しい芸術・文化を発信している先駆的なビルとして、テレビや新聞、雑誌等にも、数多く取り上げられていますが、元々は、私の祖父である細野濱吉が、昭和11年に建設会社「細野組」の本社ビルとして建設したものです。

同社が、石材請負も業としていたことから、上質の天然石を贅沢に使用し、当時の近代建築の粋を集めた建物だと、建築の専門誌にも特集していただいたことがあります。また、デザインの面においては、柱の太さや形、各階の窓枠の位置、階段手すりの装飾、壁の色と模様、何から何まで非対称となっているのが特徴です。非対称なのに、統一感がある。遊び心満載なのに、モダンで洗練された美しさがある。こうしたところが、現代の若い芸術家や流行の先端をいくファッション業界の感性に受け入れられているのかもしれませんね。

細野ビルは、祖父濱吉の心意気が込められていると私は思っています。私が生まれたとき、既に祖父は他界していて、実際に会ったことはありませんが、ビルの隅々にいたる細心の気配りや凝った意匠を見るたびに、彼のエピソードとともに、その人間性や当事の勢いを感じることができます。

 

濱吉は、明治5年、瀬戸内海の家島出身で、裸一環で石材請負業から20歳で身を起こし、後に御堂筋の道路工事をはじめ大阪築港、芦屋六麓荘の総合開発、現在の芦屋学園の創立など、若くして事業を成功させただけでなく、日本の将来の人材育成にも尽力した立志伝中の人間です。武勇伝はたくさんありますが、東京府庁(当事)の工事受注の際、関東では実績がないからと門前払いをされかけたとき、「できるかできないか、やらせてみないとわからんやろ」と役所を説き伏せたといいます。明治生まれの人は、想像をはるかに超えるパワーを持っていたのですね。

だから、この本社ビルは若い濱吉にとって、「やらせてみたら、できたやろ!?」ということを証明した知恵と技術の結集だったのではないでしょうか。濱吉が、真の本物を作ったからこそ、時代が大きく変わっても、人々の心をひきつける何かがあるでしょうね。

私自身は、濱吉の先見の明とビジネスセンスには、到底敵いません。ただ私は、文化も建築に関してもプロではありませんが、コツコツと一人手作業で修復をしながら、この細野ビルを文化の発信拠点として、ビルに新しい息吹を吹き込んでいきたいと思っています。

細野ビルは、有名人でも、アマチュアの方でも関係なく、どなたでも本当に良いものに使っていただいています。小学生でも保護者がいればオーケーです。それは孫の私にも、浜吉の「やらせてみんとわからんやろ」という精神が宿っているからかもしれませんね。

私は、元気で人が集まること、それが一番活気があって、生きていることを実感できます。人間の満足は、人それぞれ違いますが、大切なことは自分の心の満足です。自分が納得して、自分の心に正直に生きたらいいのだと思います。

今、このビルの経営自体は赤字ですが、お金以上のものを自分の人生で得ることができました。このビルに居てると、経済や他のことは、他人ごとみたいに忘れてしまいます。それは日々、たくさんの人とふれあい、活気あふれた文化や芸術に触れているから、自分の心が本当に満足しているのでしょう。

さて、濱吉なら、この時代、どうしているかと考えることがあります。たぶん・・・、彼なら、次の100年に残るビルを建設したでしょうね。でも、今、これを越えるものは、どんなに技術が進んでも、建てられないと思っています。なぜなら、そこに濱吉のような勇気と心意気が必要だからです。

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