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こころの再生百人衆

芸能・文化分野の方々

akai

赤井 英和さん

俳優


昭和34年8月17日 大阪府生まれ。
浪速高校でボクシングを始める。インターハイ優勝、アジアジュニア選手権優勝(アマ)
近畿大学進学後、モスクワ五輪の有力候補であったが、日本のボイコットが決まり、在学中のままプロ転向。<アマ時代の戦績> 56戦44勝12敗(22KO)
プロ転向後、12連続KOという日本記録を樹立。
“浪速のロッキー”として親しまれ、世界タイトル前哨戦でKO負け。生死をさまよい引退。<プロ時代の戦績> 21戦19勝2敗(16KO)
その後、芸能界へ転向。

赤井 英和さんからのメッセージ

今までの人生で、いつも親を大事に思ってきました。
我が家は、祖母、両親、姉、兄、僕の6人暮らしでした。我が家は町の公設市場で漬物の製造販売をしていて両親が共に働いていたので、その働く両親の姿を幼い頃からずっと見ていました。朝も昼も晩も休みなしに一所懸命働いている両親を大切にせなあかんなと思っていました。外でやんちゃして、突っ張っていても、家では聞き分けのいい好青年だったと思います。

当時はまだ今ほどではないですが、大きなスーパーができたりして、町の商店街などは大きな痛手を受けていましたので、姉も兄も僕も労働力として家の仕事を手伝うのは当たり前と思っていました。

たとえば、母親は家族の食事を作るため、夕方に買い物して家に帰るので、店を片付ける作業は父親と子どもたちの仕事でした。学校が終わって野球してどんなに遊んでいても、自分の打順が来ようとも、6時になったら必ず店に帰って片付けをしなければならないんです。今になって思ったら時間をきっちり守る、仕事を最後までやるというような習慣を知らず知らずのうちに身につけることができたんだと思います。

また、漬物屋の仕事は、冬本当に冷たかったです。菜っ葉の灰汁を取るのに、大きな樽に杓子菜という漬物を二度漬けするんです。一回漬けて、二回目漬けなおすときに灰汁を取るんですが、その葉の部分を手で揉んで灰汁を出すんです。それが本当に冷たかったですが、母親は店頭販売で店に出てましたので、僕ら子どもたちと父親でずーっとやり続けて、もうそれは本当つらかったです。子ども心に「僕は絶対商売は嫌だ」と思いつつ手伝ったことを懐かしく思います。でも、今思えばそれが父親母親の無言の躾けであったのではないかと思います。

もう一つ、辛抱とか我慢についてなんですが、僕の父は戦争を経験している年代です。
父は、大正10年生まれで戦争が始まる頃、志願兵で海軍に行ってたんです。船の中で洗面器一杯の水で頭も顔も歯も洗ったという人ですから、始末の精神というものを父から教えてもらいました。「もったいない、もったいない」が口癖でした。僕が風呂のお湯をジャーッと使うと「お前、なに湯をほってんねん!」と叱られました。始末というのはケチで言うてるのとは違う。始まりと終わりをきっちりと見届けて、初めてそれが始末やと。

また、父の市場では7の付く日が休みでした。その日が子ども達の休みと重なることなんて、年に何回あるかないかですが、その休みが重なったときには家族で近所のラーメン屋に連れて行ってもらいました。それがすごい楽しみでした。僕らは「焼き飯と酢豚とそれから餃子と」って好きなもの頼むけど、父親はビール1本飲みながら何も食べないんです。子どもたちの食べ残しを全部食べるのが父親の役目でしたね。お父ちゃん気の毒やなと思いながらも、そうやって年に何回か贅沢するのが子どもたちの楽しみでしたし、そういう親の姿を見ながら、辛抱とか我慢を覚えたように思います。

最後に、子どもたちには、夢は叶うんやぞということを言いたいです。
子どもたちには我々よりも時間が膨大にある。子どもたちの特権というのは、思ったものになれることです。全部の夢が叶ったものが、現にあるものやないかと。夢を実現させるには何が必要か、何がいけないかというようなことを箇条書きにして、その通りにしていけば夢は必ず実現する。本当に夢は叶うんだということを知ってもらいたいです。

そして、いつも「ありがとう」の気持ちを持つということ。「ありがとう」というこんな素晴らしい言葉はないですし、感謝の気持ちを持っていたら人に対して優しい気持ちになれると思います。「ありがとう」を口癖にして下さい。言葉には言霊という魂があります。乱暴なことや嫌なことや辛いことや悲しいことは口にしない。きれいなこと優しいこと感謝のこと、そういう良い言葉を口にして下さい。

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