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「こころの再生」府民運動とは

「こころの再生」を考える有識者懇話会

大阪府では、社会の変化や時代の変遷の中にあっても決して忘れてはならない共通の価値観や行動様式を改めて確認し、そのことを日々の暮らしの中で実践することをめざす「こころの再生」府民運動を展開します。

「こころの再生」有識者懇話会 第2回の内容


上田座長
本日は、第2回目の懇話会である。
前回は、配布資料に記されているように、家庭・地域、学校さらには、社会全体のありようにいたるまで、幅広いご意見をいただいた。また、子どもたちだけではなく、大人に対しても、厳しい意見が出された。そして、太田知事や竹内教育長はじめ府側からも意見をいただき、各委員による活発な意見交換が行われた。
本懇話会には、「メッセージ性のある宣言文」をとりまとめ、本年中には提言を行うことが期待されている。会議の回数は限られているが、中身の濃い議論としてまいりたいので、どうかよろしくお願いしたい。
それでは、本日は、まず、井村委員、続いて吉永委員からそれぞれ30分程度、まとまったお時間でご発言をいただき、その後一括して意見交換を行ってまいりたい。
まず、井村委員には、第1回目の会合では、大人が本気で子どもにあたれ、そのためには、大人を『鍛える』ことが必要ではないか、子ども達に「節目、節目」をきちんと教えるべきである、といったご意見を頂いた。本日は、それを補足するご意見、あるいは別の切り口で、ご発言を頂きたいと考えている。
また、吉永委員には、前回、ご欠席であったため、事務局がメッセージを朗読する形で、ご意見を紹介させていただいた。その中では、子どもは、本来生きる力や再生能力があふれている、大人が子どもから奪ってしまったものは何なのかを、子どもの視線で考えていきたい、大阪が大阪魂を取り戻せば、大阪の子どもたちは元気になるはずだ、といったご意見を頂いた。本日は、ご本人から、それを補足するご意見、あるいは、別の切り口で、ご発言を頂きたいと考えている。
それでは、井村委員から、よろしくお願いする。

井村委員
選手の育成で考えてきたことは、まず、栄養面から体力やパワーや筋力をつけて体を作ることと、スキル・技術力を上げていくことである。それらは、長い間、練習を繰り返し、鍛錬し習得させる。一方、ハード面では、プロデュース的に本人がより輝きよく見えるように音楽や水着を考える。しかし、シンクロは、採点競技なので人の心を動かし感動させる力を育てるようにしている。
子育ては、形容詞を使ってしてほしい。公園で雀がいたら「かわいいね」。花を見て「きれいね」と。形容詞で育てられた子どもには、感動の基本がある。今の生活は、忙しくて形容詞を使わないで育っている。次に、人を感動させるために子ども達を感動する場面に連れて行く。舞台やサーカスやイベントなど、本物、本気のものを見せる。海外にも行くが、スペインで今を真剣に一生懸命に生きている人々の踊りを見ると心が動いてくる。舞台を見てスタンディング・オベーションしているシンクロの選手達を見て、この子達は人を感動させることができると思った。感動しない人間は、人を感動させられないから。本気のもの、本物に触れさせる機会を多く持つことが大切である。
シンクロはどれだけエネルギーを届けられるかという採点競技なので、人に感動を与えられる選手育成を考えてきた。
人間は、他の人の力なしでは生きられない。しかし、個性とか個人を認めるとかを言い過ぎたきらいがある。個人を支える人がいたのに、そのことを忘れたのではないか。先日、あるイベントに参加したが、テーマが「夢」だった。イチローが高校生の時に書いた作文で印象的なことが2つある。イチローは「3歳から野球の練習を始め、365日の内360日きつい練習をした。それ以外の日もきつくない練習はしていたのだろう。だから自分は絶対プロの選手になれる。なれないわけがない」と考えたこと。それから、「プロ野球選手になったら、お世話になった人々に試合の招待券をいっぱい送りたい」と思っているということ。お世話になった人々を忘れていない作文に、心が洗われホッとした。そして、今のイチローは自分のことに加えて、周りの人々を忘れていない。
今は個人のことを言い過ぎて、人が人を支えているということが忘れられていて、世の中が寂しくなってきたと思う。
選手を育てる上で、気合いを入れて説教をするのは、実はむしろ試合に勝ったときである。勝ったのはチームや仲間がいたから、それから、コーチの私もあなたに協力したこと、父母も応援したから勝ったのであるといったことを話す。いい結果になったときこそ、心が開かれているから、人に感謝することを教えるようにしている。負けたときは、なぜダメだったかを1つか2つだけ言って、次へのステップにつなげる。
夢を叶えるためにはみんなの協力がいること、人の力を借りて人は人によって支えられているということを子どもに話していくべきと思う。
子育ての問題は「親育ての問題」である。親を育てないと子育ては難しい。シンクロで一流の選手になった40歳代の教え子がいるが、決してステージ・ママにならず、みんな「待てる親」になっている。選手としてとことんいっていない人は、待てない。子どもが一流になるまで待てなくて右往左往する。一流になった選手は親として、なぜ待てるのか。それは、自分ができた感触があるので、自分の子どもにも「この子はいつかできる」という自信を持っているからである。一つのことをやりとげるということは、何をしてもちゃんと学んでいると思う。
人とのコミュニケーションが持てず、うまくいかないのは、非常に気を遣いながら生きているからではないか。親や先生が子どもになぜ気を遣うのか、相手の気分を損ないたくないと考えているからである。心の中で引っかかる部分があっても、気まずくなるのがつらいからである。学校や家庭やありとあらゆる場で気を遣って生きている。
そうではなく、大事なことは、勇気を持って本気で自分の思いを伝えることである。本気は人に伝わる。伝わるまでいくことが大事で、引いてはダメである。
この7~8月に素人の親子にシンクロを教えた。感想の中に、「井村先生が水着になって自らプールに入ったことや5歳の子どもに真剣に注意をしている姿にびっくりした」とあった。そういう手紙を読んで、何が心を動かしたかと考えてみると、私の熱意だけである。私の熱意に親も子も引っ張られて感動し、できたのだと思う。人は熱意に動かされるものである。
学校でも熱意を持って本気で話す先生の言うことは、子どもはちゃんと聞く。先生が熱意を持って本気を伝えているかどうかである。「あの人のためなら」と思うのは、その人の熱意に引っ張られるからである。
昔も今も、子どもは変わらない。気を遣わないで自分の思いを本気で伝えることが何よりも大事である。今の世の中、人と人とのつきあいに、なぜこんなにも気を遣うのか。コーチをしていて、いろんなタイプの選手(子ども)がいるが、どんなタイプの選手に対しても、指導者として「これは許せない」など、確固たる信念を示し、相手を探らないで自分を出すこと。そうすれば、人と人がつきあうことは、楽しくなると思う。

上田座長
井村委員は、選手をどのように育てるのかという実践の中から導かれたことを話された。特に「感動する心」をどう育てるのか。「感動できないとシンクロで人に感動を与えられない」。
また、個人の側面ばかりが重視され、他の人に感謝することが軽視されている傾向にあること。
子育ては、「親育ての問題」であること。
本気で生きることがいかに大事かということなどのご意見を頂いた。
つづいて、吉永委員、よろしくお願いしたい。

吉永委員
みなさん、関西エリアにご縁のある方たちばかりだが、私は、もともと、大阪が好きで、45年間、阪神ファンである。今まで、国の規制緩和や地方分権推進改革会議などで、教育を中央でなく地方で展開するチャンスと考えてやってきた。今回、お話を頂き、懇話会の趣旨に賛同し、参加させていただいた。
今まで様々な教育に関する「提言」やたくさんの「答申」や「計画書」などが出されてきたが、結局、あまり動きはなく、事態は一層深刻になっている。
仕事の関係でワイドショーなどにも出ているが、普通の子と安心している子どもが、いきなりドカンと人生を切ってしまう。子どもの犯罪は減っていない。大人の犯罪もひどい。
今回の「提言」は、総花的なものでなく、大阪ならではのもの、この一歩からはじめるという、目に見えて結集できるものがいい。
送られてきた資料を見た。設立趣意書には三つのキーワードがある。一つは、「拠るべき価値観や行動様式を明らかにすること」。二つは、「社会の基本、教育の原点に立ち返ること」。三つは、「大阪が変われば、日本が変わる」ということ。
この懇話会で、拠るべき価値観や行動様式を提言するということだが、個人の意見や多様な価値観がある。また、日本社会は「世間」の縛りの構造があり、インターネットの世界の中にすら「世間」の構造をつくって、こうしたなかで、共通した価値観や行動様式を出すことが、どういう意味を持つのか、ちょっと気になる。二つ目の社会の基本についても、今、社会が変わろうとしている時期で、様々な軋轢が様々な問題を生じさせている。どういう社会をつくっていくのか、教育の原点に何を求めるのか。
私は、教育の原点とは、子どもが一人で生きていける逞しさや柔軟性を育てること考える。今は、引きこもりとか一人で生きていけることが困難な状況がある。
昔は、15歳ぐらいで集団就職があり、その時、親が子どもを出す気持ちを詠んだ句がある。家庭教育の原点と思うが、「発つ前に 虫歯の治療をしておけよ 悔しきときを くいしばるために」。くいしばることは、一人で生きるための原点だと思う。
三つ目の「大阪が変われば、日本が変わる」は、地方が地方の教育をする時というか、大阪の特色や歴史を活かして、東京とは違う大阪らしさを出せればいいと思う。大阪らしさは、反主流、反骨精神、独自性と思う。東京で社長をしている大阪出身の人で、一生懸命大阪を隠そうと大阪弁を使わないで商売をしてきたという人がいる。しかし、標準語になるにつれ、本来持っていたものが希薄になってしまったのではないかとおっしゃっていた。なぜ、大阪弁や大阪商人は信用されないかというと、まっすぐでないからと言われるが、「大阪商人と屏風は曲がって立つ」ということで、大阪の個性だったのではないか。失って大阪の魂がわかったとおっしゃっていた。
大阪の歴史を踏まえた、文部科学省型の全国一律ではない、大阪らしいものを求めること、「大阪が変われば、日本が変わる」というのはすばらしいことと思う。今、子どもは何を必要としているのか。大阪の教育は、これと、これを育てたいと明確にしたらどうか。
子どもの現状から考えてほしいことを三つあげる。
一つは、子どもの時間を子どもにきちっと返すこと。今の親が最も多く使う言葉は「早くしなさい」だそうだ。子どもは、たっぷり時間をとってボッーとした時間やのんびりできる時間が必要と思う。しかし、大人は、そんな暇な時間があったら勉強しなさいと、親の勝手で時間を振り分けてしまう。毛利さんを取材したとき、なんで宇宙飛行士になったかというと「自分は、雪が朝と帰りの夕刻で色が違うことに不思議と思った。自然のすごさ、畏敬の念を持ち、それを解明したいと思って科学者をめざした」と話された。子どもには、ボッーとするムダな時間が大切である。
二つは、未来を信じ、可能性というか、やり直しのきく人生を子ども達に与えることである。今の子どもは、何で自分の人生を簡単に捨ててしまうのか。それは、未来の可能性を信じていないからではないか。
私の下の子どもが落ちこぼれて高校を中退し、今はアメリカで一人暮らしをしているが、一度、流れから落ちると戻れないと言っていた。塾へ行かなくて遊んでいる子とそうでない子とでは、アフター5に差がつく。一度、落ちてしまうと復活できないことが問題である。
「中学校に入った瞬間、俺の人生、知れたもの」と12歳で人生を計算してしまう。この仕組みは子どもにとってつらいもの。自分の未来、人生を大事に、人生はやり直しがきくというメッセージ、自分を大事にしようと呼びかけたい。
三つは、会話やコミュニケーションの不足である。親子の間で話さなくなっている。親が子どもに話しかけても「べつに」で終わる。さらに話しかけると、「しつこい」「うるさい」となり、その後の会話がない。
ある調査では、話すことは携帯電話のメールで話すことだという。これは、話すことではない。記号化の中で会話風になっているだけで思考する言語ではない。なぜ、こんなにしゃべらなくなったのか。
小学生の悩みは、金銭問題と人間関係という。恐喝されないかということといじめられないかということだという。それで、当たり障りのないことを言うのにメールが便利となる。これでは、これから向かうべき社会へ自己表現できない人間になる。
モンゴロイドとコーカサイドでは、脳の成熟の過程が違うという。モンゴロイドは、成熟に時間がかかって色んな人間関係の中で摩擦とか軋轢で揉まれることが必要という。コーカサイドは、狩猟民族なので早く個室で一人にすることで成熟するらしい。しかし、モンゴロイドは一人でいると成熟しないという。昔は、親子が一つの部屋でいて、そこに居候や他者の存在があった。小さい子が大きい子に、これはしていいこと、してはいけないことを教わった。そういうことが、自然発生的にできないのであれば、何かのしつらえ、装置によってできないかと思う。
それから、学校の中で子どもがしゃべらないのは、先生が子どもに話す機会をつくるべきである。アメリカでは「アイ、アム、ミー」「ショー、アンド、テル」という授業があって、話すこと聞くことをきちんと教えている。意見に対して反論されても再反論して経験する。世の中には違う意見の人もいると自然と身についていく。こういうことは、日本の学校でもすぐできることである。活発にしゃべること。子ども同士や先生、大人と話すことは非常に大切なことと思う。
大阪の学校では、一週間に一回は必ずこれをしています、ということを全国に発信していくことが重要ではないか。
例えば、学校の校庭に芝を張る取組があるが、緑の芝があると子どもは外に出て転がりしゃべるようになる。このように大阪でこれということを取組み他県に発信できるものを作れないかと思う。そうすれば大阪にとって自信になる。

上田座長
吉永委員から子どもの問題を中心に三つ提言いただいた。
一つは、子どもの時間の保障ということ、二つは、子どもの未来に復活ややり直しが可能で自信を与えること、三つは、コミュニケーションの土台である話すということ、どう自己表現できる子どもを育てるかということである。
また、事務局への質問もあった。拠るべき価値観という定義は難しいのではないか、どういう社会をつくっていくかということが明確にならないと教育の原点も明らかにならないのではないかというものである。
しばらく、フリートークしてまいりたい。

竹内教育長
趣意書の中で、拠るべき価値観や行動様式を明らかにすることとあり、それは、本懇話会で先生方の議論の中でと考えているが、どんなイメージかというと、当たり前の話になるが、「人を殺してはいけない」「人の命を大切にする」、「忍辱(にんにく)」という言葉もあるが、「努力しなければ何事も可能にならない」「勤勉であること」「正直に生きること」「人を騙したり貶めてはいけないこと」などである。
次に、社会の基本、教育の原点に関しては、やはり、人は一人では生きていけないこと、社会を構成する人と人とが互いの力で生きているということ、人の力を借りて生きているというこの当たり前のことを踏まえつつ、しかし、そのことは、決して自分の主体性を無にすることではなく、世間の顔色ばかりを見て生きるのではなくて、自分本位にならない自らの個の確立と他者の確立をもって成立すること、その意味では、人権教育のいう「人権」ということや「おもいやり」や「社会連帯」ということになるかもしれないが、そういうことを趣意書に込めた。
「もったいない」という倹約の心、物を大事にすることも社会の発展に大切な価値観と思う。

上田座長
今、話されたことは、討議を重ねて宣言文の中に盛り込んでいくべきと思う。

太田知事
お二人の委員のお話を聞き、色々考えた。日本の民度が落ちていると感じた。「こころの再生」とは、日本人が日本人の自信を取り戻すことと思う。
大阪出身で大阪育ちの教育長に、昔と今の大阪の教育の違いを教えてほしい。一極集中の東京と比べて大阪的なものとは何か。
私自身、本気になったときは、挫折したときだった。取り戻したいと本気になった。
知事になったとき「えらいことになった」、そして、本気で「責任をまっとうしたい」と思った。この2回だった。
民度が落ちているのは、結局、本気になれる人間が少なくなっていることと思う。親子の間でもできるだけ平穏にとなっている。本気になれる瞬間をつくることだと思う。心の傷を負ったときにリカバリーできるようなシステムができてないと本気になれないと思う。

竹内教育長
大阪の教育は、そんなに変わってはいないと思うが、学校を取り巻く社会状況が変化したと思う。
昭和30年代後半から40年代、50年代と日本の高度経済成長に伴って大阪への人口流入が激しくなり、大阪の町のたたずまいが大きく変わっていった感じがする。大阪の上質の部分として大きな商家があり、商人道徳があり「正直に生きること」「人を騙して商売したら成功しない」といった確立した商人道徳があったが、他から大阪へ来た人々が多数流入し、大阪を踏み台にして利用してステップアップすればいいというような社会の雰囲気というものが大阪の街にできてしまったのではないか。その中にあって「自分が儲ければいい。自分さえよければいい」というネガティブな部分が開放されすぎてしまった。それが今の大阪人の拠って立つところの「違法駐車が多い」とか「ポイ捨てが多い」とか「街が汚い」とか「不法投棄の看板が多い」とかいうところに大阪人の心の有り様が出てきているように思う。
その意味では、吉永委員が「大阪なるもの」と言われるようなことを是非したいと思うし、そうしなければならないと思いつつ、残念ながら「大阪的なるもの」が、ここ20年ぐらいの時間経過の中で「いい大阪的なるもの」が後ろに下がってネガティブな部分が前衛に出てきてしまっているような感じがする。

太田知事
大阪的なるものは、はっきり物を言うところにあると思う。コミュニケーションをとる上でサイレントピープルではなく、はっきりものを言って自分を相手に分かってもらう意味では、色んな人が集まっている東京以上に良さがあって国際化されていると思う。

竹内教育長
そこは、良い面としてあると思うが、一つ間違うと、ルールのない、昔は言い合いをしつつも「人を傷つけてはいけない」という共通のルールがあったが、何でも言えばいいという風潮が前に出過ぎてしまい、コミュニケーションするエチケットが弱くなってきた感じがする。大阪に生まれ育った人間としてそんなふうに思う。内心忸怩たる思いがある。

伊藤生活
文化部長
大阪的なるものは、過去何度も危機に瀕してきたと思う。近いところでは、敗戦とその後の高度経済成長である。明治維新も大名に貸した借金が踏み倒され大変な目にあったが、不死鳥のごとく立ち上がった。
敗戦この方は、かつて輝いていた大阪的なるものが、どうも立ち直ってないような気がする。教育長からもあった高度経済成長期のものすごい人口流入、その前に支えていた人々が空襲や疎開などですっかりいなくなった。そこへ年間20万人とか30万人の規模で来た。府内の人口870万人のうち、ざっと300万人以上の流入人口があったと見るべき。ライフスタイルも意識も変わったと思う。たぶん10年先になると、その前の大阪を記憶している人々が少なくなる。
文化行政を預かる立場から言えば、大阪の文化イメージは極めて悪い。ステレオタイプで大阪が発信される。かつて大大阪として輝いていたことについて、実感を持って語れる人の情報発信が極めて弱い。
一方で、ステップ台にして大阪へ来た人が多いという話が出たが、その人達は、それなりに大阪に来て使いこなして住みこなして、大阪を好きでいてくれると思うが、その人達の一番身近なこと、例えば「たこ焼き」「お好み焼き」「お笑い」「違法駐車」などの、ほっといても発信力がある話題ばかりが発信されるのが、今の文化状況ではないかと思う。
そのことと、かつてあったはずのコミュニケーション能力や社会の子育て力とかが落ちているということと、どこかで通じているような気がする。あったはずのもの、無意識的に失ってしまったものをもう一度見つめ直して取り戻す思考経路があってもいいのではないかと思う。

太田知事
私の義理の父は92歳だが、大阪的なるものを感じたことがあった。それは、大阪府の知事に出るとき、「やってみなはれ」「ええがな、後はどうなっても」と言ってくれた。そのとき、本気で言ってくれたのだと思った。
「やってみなはれ」精神は、イコール本気だと思う。

井村委員
色んな所に合宿で行くが、大阪は本音で接してくれる。ほっておくことがもてなしということを大阪の人は知っている。ところが、地方へいけば、それは失礼だということで、さまざまなもてなしをしてくれる。東京も本音でないところが出てくる。
大阪は本音で言ったら受け止めてくれる。裏の裏を考えないことが大阪のいいところではないか。「やってみなはれ」も嘘でなく本気で言っている。本音でつきあって100%信頼できるのが大阪と思う。
本気になるときは、ちょっと背伸びしたときである。だから、子どもにも、少し背伸びをさせなければいけない。もうちょっとと求めるときに人間は本気になれる。みんなが無理しない。ちょっと無理して、それでいけたら快感である。少し無理したときに本気になれるということもある。

竹内教育長
大阪の子どもは、その意味でちょっと無理してみよう、背伸びしてみようという気持ちが萎えているのだろうか。

井村委員
子どもにも、ちょっと無理することをあまり求めていないと思う。学校でも走っているとき、もうちょっと走ろうと、上を望むことがないのではないか。

吉永委員
ある意味、それが偏差値的なものに集約されすぎてしまったので、ちょっと先が一つしかなくなってしまった。
大阪がネガティブになったということだが、それは、ネガティブにしてしまったのだと思う。大阪が自らネガティブと言ったわけではないが、一極集中の過程で東京的なものからみたらネガティブなものになってしまった。東京で商売するうちに折れて、無くなってしまったのだと思う。
大阪的なものを自ら否定したのではなく、結局、東京的なものを求めると大阪は二番手になってしまう。
大阪の言葉で「やってみなはれ」はとってもいいと思う。私は、自分が逆境の中で本気になるとき、大阪弁を使っている。「やったるで」と「やってみましょうか」では、全然パワーが違う。それだけ何かに戦っていくというか出ていくというパワーは大阪の歴史的な特徴であると思う。
人と話すとき、東京の言葉は深刻で傷つけるときがある。大阪弁は何か一歩残すと思う。あったかさというか、何か人間性を全て否定しない。「あほちゃう」と言われるのと「あんたバカですね」と言われるのでは傷つきようが違う。しかし、最近テレビ局でもコテコテの大阪弁を聞かなくなっている。言葉の力は大きい。いつも大阪弁にうらやましいと思っている。

伊藤生活
文化部長
こういう場でしゃべっているのは、どちらかというと大阪の役所言葉かもしれない。ドアの外へ出ると、しゃべり方が違うと思う。
実際は、おっしゃるほどコテコテの大阪弁は使っていない。大事なことは、今はこんな言葉だけれど、二世代前はこんな言い方をしていたという大阪的なものを知っておきたいと思うし、知らせておきたいと思う。大阪的なものを自分で消したわけではないとのご意見もいただいたが、大阪人が大阪らしさを自分で消してきた側面もあるように思う。「大阪人の大阪知らず」というものが、今の大阪の文化状況にとって危機的な要因になっていると思う。

成山教育監
教育の場で大阪らしさというものを考えると、ぬくもりのある教育だと思う。厳しい家庭の状況を抱えた子どもにかかわっていく教育である。これがマイナス面では、甘やかしの教育にうつってしまう。この部分を何とかできないかと思う。
また、大阪らしさというと、既成の観念にとらわれないで、本音で話すこと。ところが、ややもすると、この本音が実利のみになり、公や法を無視してでもいいということになる。例えば、信号を渡るとき右見て左見て安全だ、さあ渡ろうということになる。その時、渡ってはいけないという法概念はどこかへ行ってしまっている。現実の生活の中では、お上の決めたことでなく、我々の中で実利を働かせればいいと考える。ところが、この実利が反社会的非社会的な行為がよく目立ってきているのが今である。ここを何とかできないかと思う。
もう一つは、ごった煮の良さである。松下幸之助さんもそうだが、大阪で活躍した人は大阪外から来て大阪を土壌に大阪から発信した。そういう育む力が大阪の街にはあった。これが大阪を支えた経済力に関係していると思うが、近年、その力が薄れている。大阪の人間が東京へ出ていって東京で出世をするという姿が、子ども達に人生の目的や将来の可能性を奪っているのではないかという感じがする。

上田座長
私は、京都人で西陣の出身である。私の勝手な議論だが、京都は固体だと思う。開発をするにしても、安易に壊すことはできない。新しい物を別に造らねばならない。
ところが、大阪は液体である。何でも飲み込んでいく。もともと私は、大阪が嫌いだった。知らない間に大阪女子大学の学長になって「えらいことになった」と思った。
役人で言えば、交渉ごとで京都では、「結構ですな。考えときますわ」というのは、「あかん」ということになる。大阪では「あかん」ことは「あかん」とはっきり言う。「考えます」と言えば、本気で考えてくれる場合が多い。大阪は本音であるというのが実感である。
それから、実利主義というか、損な物には絶対に手を出さない。大阪の商人道が育んだと思うが、得か損かで考える。その代わりいい物はどんどん取り入れるという、まさに液体である。
大阪のどろどろした液体の部分が、スマートになってきているのではないか。大阪が東京化して大阪らしさがなくなってきているように思う。一極集中の弊害である。
戦後の大阪は、誘致合戦。国の力をどれだけ引っ張ってくるかという他力本願思考になったのではないか。大阪は、本来、自力の街である。政治でも経済でも大阪の力を発揮するためにいかに国の力を利用するか。戦後、自前で建てた物は数えるしかない。しかし、戦前は、みんな自前で建てた。大学にしても企業家がお金を出した。最初からの公立や国立は少ない。大阪市大や大阪女子大など、企業者がお金を出して寄付した。このことを大阪は再発見すべきである。
東京でやるような宣言を大阪がやるのでは意味がない。大阪らしさをいかに出すかが大事と考える。私は歴史が専門だが、大阪は古代からインターナショナルで、たとえば、韓国・朝鮮の人々の人口が多いのは大阪である。大阪の特色は国際性にある。ごった煮の強さがあって、ごちゃごちゃどろどろしている。まさに大阪は液体である。ただし戦後、流れの付け方を間違ってきたように思う。これは実感だが。
今は大阪が好きである。もっと大阪はがんばってほしい。

永田大阪市
教育長
子ども達に何が必要かと考えるが、学力や本物を見せて感性を磨くとか、集団の中で色んな人と出会うことなどが大事であると思う。
ある古い幼稚園を訪問したとき、船場の方々が幼児教育の大切さを考えてお金を出して、ピアノやバイオリンや書籍やオモチャなど、子どもが必要な物をみんなで出し合って幼稚園をつくったことを知った。そんなところが大阪市内にはたくさんある。
大阪の人たちは、子どもへの教育が将来の大阪をつくることになるということを思って子ども達を育ててきたということを実感した。
お金がなくても、みんなが気持ちを出し合い子ども達が大阪の宝物ということを伝えることで育てることができないかと考える。
最近、子ども市議会があり、子どもの中からあいさつすることでコミュニケーションを図るという意見が出てきた。これは、すごいことだと思った。私も教育長という立場で話したことが自分に責任が返ってくるというような、言葉に出してしゃべって、耳に入れて納得するということがあるので、子ども達もメールではなくて話したことを自分で確かめていけば、コミュニケーションを図っていけると思う。

上田座長
私も自分の考えを申し上げる。
心の教育と言うが、命の教育をなぜ言わないのか。命の大切さを教えるということは一番大事なことである。
国連が1994年、第49回総会において国連人権教育10年を提唱した。2004年に終わり、今年から人権教育の世界プログラムの3年間の第一段階として取り組むが、人権文化(カルチャー・オブ・ヒューマンライツ)という言葉を1994年にはじめて国連が使い始めた。この人権文化の根底は、命の尊厳を自覚することにある。
第3回世界水フォーラムが京都、滋賀、大阪を中心に取り組まれたが、環境関係の人しか参加していなかった。人権の関係の人はほとんど来ていなかった。水の問題は命の問題である。人間の命の問題は人権の根本である。環境は環境、人権は人権というタテワリの取り違いがある。人間にも自然にも命がある。環境は、人間と自然の接点に生じてくる問題と考える。
命の教育というものを、まず、心の教育のベースにするべきではないかと考える。
人権という言葉は、ヒューマンライツの翻訳である。明治の前期に人権と訳した。だから、中国の古典にも漢字の熟語に「人権」という言葉はない。翻訳語である。権利だけを主張する人権が多すぎ、個人の人権ばかりが言われてきた。国連の人権教育の定義には、「他人の尊厳に学び」という言葉があり、それが大前提となっている。これは、国連がはっきり提起している。先ほども感謝の心が言われたが、人間は一人だけで生きているわけではない。他の人との関係の中で生きている。自然あっての人間で、自然と共に人間は生きている。人道支援は人権支援とは言わない。東洋の言葉は人道である。人権というと、2001年11月、多文化に関するユネスコ世界宣言の中に「ヒューマン・エデュケイション」、人間教育と言っている。人権教育という言葉は使っていない。
人間教育は、人権教育の根本である。人が人として人らしく生きるということが人権教育の前提である。
「人の人たる道」というのは、心学の言葉である。心学は石田梅岩(1685~1744)が提唱し、後の人が「心の学」と言い心学と呼ぶようになったのであって、梅岩自身は自分で心学とは言ってはいないが、心の発明が、いかに大事かと言ったのは石田梅岩である。
心学というと封建道徳の固まりのように思っている人も多いが、人道である。大阪商人が、心学の心をもっとも実践した。薄利多売で儲けたお金を社会に返すというのが大阪商人の生き甲斐だった。儲けたお金を自分だけで使うのは、本当の大阪商人ではない。懐徳堂が民間からなぜ生まれたか。なぜ大阪商人から山片(やまがた)幡(ばん)桃(とう)(1748年)をはじめ偉大な学者が次々と出てきたのか。これは、単なる「儲かりまっか」ではないと思う。そこには、本当の実利の商人が存在したと思う。
人道という観点から考えるべきと思うが、心の問題を考えるときモラルと宗教を抜きには考えられないと思う。こころの再生と言ったときに宗教と無関係に言えるのか。文部科学省の心の教育審議会のメンバーにも宗教家は一人も入っていない。政教分離の問題があるからと思うが、しかし、教育基本法の第9条第一項には「宗教に関する寛容の態度及び宗教の社会生活における地位は、教育上これを尊重しなければならない」と書いてある。特定の宗教を教えるのは良くないが、神仏に感謝するこころまでも、教育が否定すべきではない。
昨年のノーベル平和賞の受賞者でケニアのワンガリ・マータイさんが、今年の京都議定書発効を記念したシンポジウムで、「もったいない」という日本語に感動した話をしていた。「もったいない」という言葉の文化的価値はものすごいと繰り返し言われていた。
「おかげさま」も感謝する心であり、今、このことが欠けているように思う。自分一人で生きているように思っている。井村委員が、シンクロは一人で演技しているのではなく、仲間と共に多くの人の世話になっているということをきちんと選手に教えるということを聞き感心した。「おかげさま」という言葉、これは、第1回目に、桂委員が心の問題として言葉と食事の大切さを提起されたが、キーワードになる言葉を大切にしていくべきと思う。幸い、国連人権教育の世界プログラムで、大阪府教育委員会が人権基礎教育として取り組まれており、幼年・少年・青年の教育において、これから3年間力を入れ、小さいときから人権教育をやらなければいけないと言っている。そういう意味で、こころの再生問題を考えるときに、もう一度、大阪の伝統を振り返ってみたい。
大阪の商人は、人間らしく生きるために金儲けをどうしたらいいのかということをベースにしてきたと思う。そういう商人魂が、だんだんと金儲け、利潤追求だけにすり替えられ、今は社会に還元するということは、あまりないという状況でしょう。石田梅岩の薄利多売の精神が薄れてきた。

竹内教育長
吉永委員からやり直しのきく社会の実現、一度落ちこぼれてしまえば、乗り越えてカバーできないという話が出されたが、教育行政の立場から言えば生涯学習社会の実現ということになる。
自身の子育てを振り返るとき、子どもは、最初のスタートの時に「自分は他の人より劣っているのではないか」と、一瞬、感じてしまえば、一気に引きこもり、後ずさりするようなことが現実の問題としてある気がする。
親が子どもにどれだけ励まし、可能性を信じることができるかという親自身がぶれないということの大事さとあわせて、教育長になって言っていることは、やはり、学ぶときには学ぶときの旬があり、子どもが伸びていくときにきちっとしたものを与えてベースをつくらないといけないと思う。
そういう意味では、やり直しのきく仕組みや子育ての自信を親に与える教育の問題とあわせて、学校として伸びる時期にタイミングをつかんで教育することが大事と考える。

吉永委員
そう思う。自分のやりたいことができないから屈折すると思う。やりたくない子どもは屈折もしない。劣っていると思うことは、何も悪いことではない。この部分は劣っているかもしれないが、この部分はいいということをたくさん発見させることが、自信になる。自分に自信を持つと自分の命を大事にするし、他人の命も大切にするようになる。
大人の自殺がこれだけ多い国も世界に類を見ない。自殺は、「命を大切にしなくてもいい」と教えているようなものである。子どもは、必ず大人の世界を映すもの。

上田座長
井村委員が、子育てのためには親育てがいるという意見を言われたが確かにそう思う。

井村委員
いつも、私は「一番が大好き」と言うが、勉強の一番、スポーツの一番、やさしさの一番、気配りの一番など色んな一番があっていい。
一番をつけたらいけないみたいなことが言われるが、運動会で順番つけるとダメと言われたりするが、運動会の良さは、勉強の苦手な子が脚光を浴びてスターになれるところだった。一番をつけたらいけないという、その時点からおかしくなったと思う。
色んな一番があって、人間的な一番もあるという認識をもって子どもに接したらいいと思う。
母がお世話になっている高齢者施設に行って思うことは、今の若い子は、こんなにもかっこよく、やさしく年寄りに接しられるのかと頭が下がることである。優しい言葉で親切に接している姿を見るとき、日本は捨てたものではないと思う。若者が出ようとするときのチャンスを無くしているだけであって、高齢者の世話をしたい子がたくさんいるから資格を取ろうとすると思う。やさしい子が増えたが、その代わり逞しさが少なくなったと思う。

成山教育監
子どもの良さや可能性が多様になっているが、大人がそれを測る価値観の物差しが一本だと思う。物差し一本で順位をつけるから落ちこぼれてしまって劣等感をもつ。いろんな価値、物差し、良さを大人がどれだけ持てるかということだと思う。

井村委員
まず、親や先生が持つことだと思う。

竹内教育長
子育ては、どうしても経験主義になってしまう傾向にある。親自身がそれをどう超克していくかが課題である。

上田座長
そろそろ時間が近づいてきたが、是非、これだけはという意見がある方はどうぞ。

井村委員
命の教育というのは、生きることの大切さであり、死を認めるということである。
今、ペットレス症候群というのがあるが、おかしいと思う。生きているものはいつかは死ぬのだから、生きている間にどう接するかを考える。ペットの死をきちんと見ていないのではないか。それがダメである。死を認めることで命の大切さを知ることが大切である。
注目を集めている北海道の「旭山動物園」はすごいと思う。檻の前にいついつにこの動物が死んだと黒枠の写真に入れてちゃんと出す。命の終わった動物を知らせることで、生きているときを大事にする。気がついたら生きていたというのはすごいことだと思う。それこそ、神様がくださった命。その命をどう使うかということを考える。死をきちんと認められるようなことが、昔は、金魚や虫を飼って死んだときショックだった経験をした。次飼うときは、少しでも長生きするようにした。そういうことが無くなってきたのではないか。子ども達が、死を直視しないことによって命の尊厳を忘れていくように思う。

上田座長
死を見つめて生きるということは大事なことであると思う。

吉永委員
学校でもよく小動物を飼っているが、死んでしまうとか世話が大変だとか、殺されたりするから、飼うのを止めてしまうが、むしろ殺されてしまったりするような不幸なことが起きたら、そのことこそ教育現場で取り上げて教育しなければならないことと考える。

井村委員
今は、だから小動物を飼うのを止めようと排除してしまう。
小学校の給食で食べるのが遅い子どもがいたとき、先生が親に電話して「○○さんのお弁当、これから少なく持たせてください」と、時間内に食べられないからが理由と言う。
とにかく、型にはまるようにはまるようにやっていっているところが問題と思う。

上田座長
どうも、ありがとうございました。
それでは、次回以降の進め方についてよろしくお願いする。

竹内教育長
次回以降の進め方について申し上げる。
次回、第3回の懇話会は、9月20日(火)の午後4時から6時を予定している。事前の日程調整で、次回は全委員の皆さんにご出席いただけるとお伺いしている。
第3回目の会議は、宮原委員と桂委員にそれぞれ約30分程度のプレゼンテーションを行っていただく予定。第4回目の日程は11月以降の開催を目途に別途調整をさせていただく。
次回以降も、お忙しい方々ばかりなので、誠に心苦しいしだいだが、よろしくお願いしたい。

上田座長
この際、何かございますか。
ございませんようですので、本日の会議はこれをもって閉じさせていただく。

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第2回「こころの再生」を考える有識者懇話会(概要版)(PDF:122KB)

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